一流を目指し、
一緒に学び、
成長できる場所。
それが「かくれが」です。
一緒に学び、
成長できる場所。
それが「かくれが」です。
株式会社かくれが 代表取締役
濱野 望登
濱野 望登
私がこの業界に入ったきっかけ
1986年治療家濱野雅通の元に私は生まれました。
三兄妹の次男として生まれ育ち、サッカーに明け暮れる日々。
本気でサッカーに打ち込んで、一番になることを目指していました。
競争の中で、誰よりも努力し、結果を出すことで、
「自分が正しい、自分は偉いんだ」と思うようになっていました。
学生時代は3度の骨折、度重なる怪我を繰り返し、
その度に父に治療してもらっていました。
高校1年生の時、忘れもしない出来事がありました。
練習前にイスの下のすね当てを取ろうと屈んだ時にグキッ!と言う音と共に全身に痛みが走りました。
いわゆるぎっくり腰でした。あまりの痛みにその場から動けませんでしたが、なんとか這うようにして、父の治療院に行きました。
いつも自宅で治療を受けていた私はその時初めて父の治療院を訪れました。
今でもその時の光景を鮮明に覚えていますが、父の院は治療を待つ患者さんで溢れかえっていたのでした。
父の施術が始まると、あれほど、痛かった腰の辛さが、どんどん軽くなっていきました。
多くの患者様から信頼され、多くの人の健康を支える父の姿、その技術を自ら体感し、
感動と驚きの衝撃を受けた私は高校卒業後、サッカーの道ではなく、自然と治療家の道へ進んでいました。
三兄妹の次男として生まれ育ち、サッカーに明け暮れる日々。
本気でサッカーに打ち込んで、一番になることを目指していました。
競争の中で、誰よりも努力し、結果を出すことで、
「自分が正しい、自分は偉いんだ」と思うようになっていました。
学生時代は3度の骨折、度重なる怪我を繰り返し、
その度に父に治療してもらっていました。
高校1年生の時、忘れもしない出来事がありました。
練習前にイスの下のすね当てを取ろうと屈んだ時にグキッ!と言う音と共に全身に痛みが走りました。
いわゆるぎっくり腰でした。あまりの痛みにその場から動けませんでしたが、なんとか這うようにして、父の治療院に行きました。
いつも自宅で治療を受けていた私はその時初めて父の治療院を訪れました。
今でもその時の光景を鮮明に覚えていますが、父の院は治療を待つ患者さんで溢れかえっていたのでした。
父の施術が始まると、あれほど、痛かった腰の辛さが、どんどん軽くなっていきました。
多くの患者様から信頼され、多くの人の健康を支える父の姿、その技術を自ら体感し、
感動と驚きの衝撃を受けた私は高校卒業後、サッカーの道ではなく、自然と治療家の道へ進んでいました。
独立、そして苦悩の日々
この業界に18歳で入り、経験を積んだ私は23歳の時、自信満々で独立しました。
しかし、開業1年目はまったく集客できず、貯金がどんどん減っていく日々でした。
空白だらけの予約表に有名人の名前を書いて時間を潰していたこともあります。
自信も打ち砕かれ、家族にも心配をかけていましたが、
3年目にしてようやく、結果が出てきました。
きっかけは自分が変わらないと何も変わらないんだということに気づいたことでした。
集客の仕方、治療の方法など自分なりに試行錯誤しながら、変わっていくことで、
結果に変化がありました。
結果が出てくると、サッカーをやっていた時のように、
誰かと競うかのように結果を出すことに執着していました。
そこでまた新たな壁にぶち当たりました。
採用していった社員たちがどんどん辞めていったのです。
ひどい時は1年間での離職率が95%ということもありました。
私は採用した社員を稼いでくれる駒のように思っていたのです。
当時の社員にはとても申し訳なく思っています。
幸いにも、その出来事から、このまま行ったら、
またダメになってしまうと思うことができ、
自分の性格、人間性を変え、社員との関わり方を変えないといけないと考えました。
しかし、開業1年目はまったく集客できず、貯金がどんどん減っていく日々でした。
空白だらけの予約表に有名人の名前を書いて時間を潰していたこともあります。
自信も打ち砕かれ、家族にも心配をかけていましたが、
3年目にしてようやく、結果が出てきました。
きっかけは自分が変わらないと何も変わらないんだということに気づいたことでした。
集客の仕方、治療の方法など自分なりに試行錯誤しながら、変わっていくことで、
結果に変化がありました。
結果が出てくると、サッカーをやっていた時のように、
誰かと競うかのように結果を出すことに執着していました。
そこでまた新たな壁にぶち当たりました。
採用していった社員たちがどんどん辞めていったのです。
ひどい時は1年間での離職率が95%ということもありました。
私は採用した社員を稼いでくれる駒のように思っていたのです。
当時の社員にはとても申し訳なく思っています。
幸いにも、その出来事から、このまま行ったら、
またダメになってしまうと思うことができ、
自分の性格、人間性を変え、社員との関わり方を変えないといけないと考えました。
理念をつくり、喜びが増える日々
改めて、社員への感謝、周りへの感謝、私たちの仕事の意義などを考え、
職場で働くスタッフが喜ぶ、そこで治療を受ける患者さんもその家族も喜ぶ、会社も喜ぶという、
【みんなが喜ぶ会社】という企業理念を作りました。
すると離職は大幅に少なくなり、社員の笑顔も増え、
社員同士のコミュニケーションも円滑になりました。
私自信も幸せな気持ちになりました。
自分が変わろうとすれば、どんどん成長できる。
成長するには自分が変わるしかないんだと改めて気付かされました。
今では仕事を通じて、成長していく、変わっていく、自分自身、
社員一人ひとりの人生と、
その隣にたくさんの喜びが増えていっていることに毎日感動しています。
私たちが目指す姿は誰かと競争し、勝ち取るものではなく、
多くの人から必要とされ、何かを与えてあげられる人間になり、
信頼してもらえること。
より良くするために何ができるだろうか、何を変えたらいいだろうかと、
チャレンジしながら追求し続ける姿勢こそが「一流」だと考えています。
かくれがは一人でも多くの一流の人間を育てること、
一人一人の成長を目的にしています。
一番ではなく、一流を目指した父の代から40年続くかくれがの技術と考え方は
これからの社会に必要とされ、私たちの人生の核となることを教えてくれています。
今でも父の姿を見ると、私の目指す一流への道のりはまだまだ道なかばだと感じます。
一流を目指し、一緒に学び、成長できる場所。
それが「かくれが」です。
職場で働くスタッフが喜ぶ、そこで治療を受ける患者さんもその家族も喜ぶ、会社も喜ぶという、
【みんなが喜ぶ会社】という企業理念を作りました。
すると離職は大幅に少なくなり、社員の笑顔も増え、
社員同士のコミュニケーションも円滑になりました。
私自信も幸せな気持ちになりました。
自分が変わろうとすれば、どんどん成長できる。
成長するには自分が変わるしかないんだと改めて気付かされました。
今では仕事を通じて、成長していく、変わっていく、自分自身、
社員一人ひとりの人生と、
その隣にたくさんの喜びが増えていっていることに毎日感動しています。
私たちが目指す姿は誰かと競争し、勝ち取るものではなく、
多くの人から必要とされ、何かを与えてあげられる人間になり、
信頼してもらえること。
より良くするために何ができるだろうか、何を変えたらいいだろうかと、
チャレンジしながら追求し続ける姿勢こそが「一流」だと考えています。
かくれがは一人でも多くの一流の人間を育てること、
一人一人の成長を目的にしています。
一番ではなく、一流を目指した父の代から40年続くかくれがの技術と考え方は
これからの社会に必要とされ、私たちの人生の核となることを教えてくれています。
今でも父の姿を見ると、私の目指す一流への道のりはまだまだ道なかばだと感じます。
一流を目指し、一緒に学び、成長できる場所。
それが「かくれが」です。